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毒親の棄て方の実践報告をしました。

毒親の棄て方の実践報告をしました。

1月11日に仏壇の前での祖父との対峙したことを、ここに書きます。
ひとりでも多く、毒に悩まされている方の心が軽くなる事を願って。
※5000文字を超える長文になってしまいましたが、全文乗せております。
□□ 赤羽さんとの出逢い □□
 
Clubhouseの赤羽さんの「なんでも相談カフェ」で毒親という言葉を何度も聞くことがあった。自信が無い事、自己肯定感が低い事、問題児やかまってちゃんなど、色々な自己意識を形成している元になっている毒である。
 
今でこそ理解できるのが、両親をもっとも必要としている時代に全く構ってもらえない事による愛着障害、長女だからと頑張りすぎる長女病、発達障害をも併発していた私は、まさに4重苦であったのだ。
 
そこに、毒を吐き続ける親に育てられれば、自己肯定感など育つわけがないのだ。毒親達は、コントロールできるように飴も鞭も脅しも巧妙に使いわけ、言葉だけでなく時には体罰も加え子供たちを無意識に支配する。
 
その中にいる事が当人達にとっては自然な事で、辛くても子供は自分が悪いんだ。親に認められようと必死になっている。地獄絵になる家庭もあるだろう。
 
 
□□ 本との出逢い □□
赤羽さんお勧めの18冊の中に私が毒親シリーズと呼んでいる三冊がある。
「毒になる親」・「毒親の正体」・「毒親の棄て方」である。
どの本も骨太でなかなか読み進みにくい本だと思う。
自己体験と重なると本当につらくなってしまうからである。
 
また、毒になる親完全版は400ページを超えるという事も敷居を高くしているかもしれないが、絶対に一度は読んでほしい本だ。自分の毒親度、子供が毒親化しているという事が分かるからだ。
 
愛情を注いでいるから自分は毒親ではない!と思っている人が実に多いと思うし、私もそのひとりだった。毒親の連鎖は自分たちが断ち切らねば、子供たちは、孫たちへ渡していく恐ろしい連鎖を生むのだ。過干渉も、放任も毒親なのだ。 そして私は毒ババァだった・・・
 
この生きづらさ、閉塞感こそ毒親からの毒が回っているのだと理解できた。ここから解放され、子供たちも、孫たちも、笑顔で生きていく世界がwell-being(ウェルビーイング)の基礎となっていくだろう。
 
well-being(ウェルビーイング)
よい状態であり続ける事 持続可能な幸せ。
 
 
□□ 生い立ちと環境 □□
 
61年前、村一番の農地を持っている働き者の農家に生まれた。
 
大酒で家をつぶした6代上ごの先祖様に反発し、家を興した5代前のご先祖様は働き続けた。息子はそのため手当が間に合わず身体障碍者になってしまった。その長男の為に、村でも怖いもの知らずで発言する、後に「雷」の異名を持った嫁を貰った。女学校卒ですこぶる頭の良い、体も大きく人の何倍も働く人でした。私は4歳まで一緒にいました。
 
祖父母は7にん子を設けたが、女子4人は全て1歳未満で死亡。
残ったのは父を含む3人の男の子でした。祖母は体が小さく、弱いのにずっと働きどおしであり、休む暇もなかったので乳の出も悪いのは当然の事でした。男尊女子もありました。女三人いたら家をつぶすと言われる時代でした。さぞかし辛い人生だろうと思います。
 
父は妹が死ぬたびに祖母の里に乳母車を引いて報告に行ったと言っていました。命の軽い、なんとも辛い時代だと思います。
 
祖父母は女の子を持ちたかった為、私はたいそう祖母に喜ばれたと聞きました。なのに私はつぶら(藁で編んだかごの中)に一日括りつけられていたらしい。農作業が人手で行わていた時代なので、子供を見ている暇はなかったのだ。また、ハイハイをし始めると危険なものを食べたり、囲炉裏に落ちたりするのを防ぐためでもあったと父が言っていた。それでも、半日に一度は働き者の母の乳はもらえたらしい。
 
母は本当によく働く人で高校卒業前に嫁に来て私を20歳で生んでくれたが、育児をする暇は全くなかった。農家の働き手としての存在価値があったからだ。母が構えない分、祖母が可愛がってくれたのだ。
 
アダルトチルドレンを癒すワークをした時に、通常母が浮かぶのだが、私は祖母だった。不思議だったので母に小さな頃を聞いたところ、祖母の育児だったことが分かったのだ。それまで、母だと思って疑っていなかったのだが・・・。祖母が育児を担っていた。優しい祖母の顔が今でも浮かぶ。
 
父も仕事が忙しかった事と、外での活動も多かったので、あまり家にいない人でした。もちろん、仕事をきっちりこなしたうえで、付き合い酒もありパチンコも多かったです。なので、ほぼ子育てに参加はしていなかったと思います。
 
ここで、父親代わりになったのは、ずっと家にいた祖父になりました。
発達障害でやんちゃをすると怒る祖父!悪い事(本人には自覚なし)をして捕まって泣き叫ぶ私を躾の為、真っ暗な土蔵の中に入れたのも祖父。弟達はほとんど入っていないのは、私の鳴き声がすさまじくて、悪さが出来なくなったらしい。また、私の行動が酷すぎて静かな弟達が目につかなったのもある。 何度も何十回も土蔵に入れられている。悪いという自覚が乏しい事は発達障害の一部らしいので、思ったことをやってしまった結果、そうなっても仕方がない。多動は土蔵に閉じ込められても治らなった。
 
私は多動であることから運動神経はあったようで、捕まえる事も結構面倒だったと聞いている。待望の女の子で孫でもあるので、我儘育ちになり自我が強く、嫌なものは嫌!の我儘姫となっていたらしい。村の子供たちへの集団接種も狭い場所に入って最後まで出てこず、大嫌いな注射を免れる困った奴でもあった。多分、この後かなり怒られていると思われます。
 
小学校低学年までは、村の同級生の中でも、いじめっ子でした。喧嘩も強かったみたいで、母と一緒に良く謝りに行っていました。これが逆転したのは、小学校2年生くらいでした。多動で勉強が出来ない子は浮き、どうしても排他されます。
 
ここから、ずっといじめられっ子に逆転してしましました。虐められるので、学校では自分なんか居なくなってしまえばよいといつも泣いていました。しかし、家が貧しく給食があった為学校に行っていた気がします。
 
祖父が財布を握っていて、母も父も収入は無かった。それでも、農閑期によそで働いたお金だけは好きに使える事になっていました。ですから、農閑期に父は出稼ぎに行って、家に全くいませんでした。母も乳が離れた私を置いて父と共に出稼ぎに行きました。父は私が高校に上がるまで出稼ぎに行っていました。母は村で工場が出来ると冬の間そこで勤めたり、内職を貰ったりしていました。私も随分手伝った気がします。
 
一年中忙しい家なので宿題や連絡帳のチェックなど全くなかったです。忘れ物は毎日の事で、家に取りに行かされるので授業にもその分出られず、結果落ちこぼれていきました。4年生の時に親友に出会い、「なぜ私をいじめるのか?」という議題で学級会を開いてくれました。この当時は陰険ないじめは無く、わかりやすいモノだったことが救いでした。
 
この時に、私が汚い事、臭い事が一番の理由になりました。お風呂も外風呂でいつも洗濯物が積みあがっている家でした。洗濯している暇があれば、たんぼに出る事が優先されていました。ですから、お風呂にもそこまで入っていなかっただろうし、臭い服で登校していたのだと思います。ズックも洗わなかった場合の匂いを思うと、迷惑極まりない奴だっと今ならわかります。
さて、育てる環境があまりよくなった事が見えて気ました。
 
このいじめられっ子の変化は、6年生の時に心の安全基地になる校長先生の赴任によって改善されました。全て受け止め聞いてくれて頑張ろうって心から思えたし、運動面でも活発で地域でも表彰されたものが出てきました。ようやく漢字が少し読めるようになったので、算数の問題文が読めて点数が劇的に上がりました。
 
仕事をすることで他から認められる事が生きがいの母が、子育ての中で勉強を教える事はありませんでした。父は他の家庭を見ていて、母親が子供と一緒に宿題をするのが羨ましかったみたいです。結果私の小学校5年生までの成績は下から数えたほうが早かったです。弟たちも同じでした。
 
中学になると、自分の事を自分で出来るので虐めもなく、成績も中くらいになっていました。この後はずっと楽しい学生生活を送りました。
 
 
□□ 両親より祖父、祖母の影響が大きかった □□
 
仕事の為育児に参加していない両親がいた。
両親からは、愛着障害の基礎を貰っていると言えるが一番毒を吐いていたのは、祖父だと分かった。
祖母は体が弱く、いつも寝込んでいるけれど、少しでも体が動くようになると畑に出たり、庭の手入れをしていた。
 
田植えが終わったある日、祖母が晩御飯にいないので皆で探した。畑の中で倒れている祖母を見つけたのは私だった。その晩に祖母は無くなった。今の私よりもずっと若い年齢で。時代だったとはいえ、祖母の人生が悲しさにまみれている気がしてならない。私の中学校に入った年である。
 
この頃から祖父の毒の力がなくなっていった。
私が虐めもされず、生き生きとした生活が送れていくのと同時期である理由がそこにあったと分かった。
 
祖父は祖母が亡くなってからは落ち込んで、父に所帯を渡した。その後亡くなるまでの7年間は病気がちであり、それを支える父の経済的な事は本当に辛かったと思う。
 
祖父も曾祖母の犠牲者である。雷と呼ばれるくらいに怖がられていた曾祖母であればかなりの言葉をその長男の祖父に言い、コントロールしていた事が伺えるからだ。
 
□□ 祖父との対峙 □□
 
今年の1月11日は祖父の祥月命日で、たまたま実家に行けるタイミングが出来た。さらに天許日、一粒万倍日、甲子、閉で、しっかり祖父と向かい合い私の心の内を話して受け取ってもらえる最高の日となると直感した。
 
母と一緒に墓参りをして般若心境を唱えた。母は満足そうだった。
 
母は、この後、私が祖父に毒を返す事をすることは、全くわからないだろうし、知らせる気もないから一人静かに仏壇の前に座った。そして仏壇の前で一人で祖父に語り掛けた。
 
 
 
□□ 手紙ではなく、心から語りかけた言葉 □□
 
躾とは言え、暴力を振るわれたことは嫌だったこと。
土蔵に入れられたことも辛かった事。
ハサミや金づちを振り上げられるたびに怖かった事、
母が外で稼いできたお金で私の誕生日に初めてごちそうを作ってくれた。でも、それが気に入らず、食卓をひっくり返して台無しにされたこと。
色々な事が浮かぶのでそれを伝える。
 
話しているうちに涙が出た。
辛かった過去の私が泣いている。
私が悪いんだ。ごめんなさい。でも・・・・怖くて辛い。
 
言いたい事だけ言ったら、感謝の言葉が出てきた。
 
それでも育ててくれてありがとう。
私は発達障害だから、育てにくかっただろう。
ごめんなさい。おじいちゃん。
 
本当にありがとうございました。と言いながら気持ちがすっきりしていくのが分かった。解放されていく自分がいました。今まで、両親を許しているから大丈夫だと思っていたけれど、そうではなかった事が分かった。
 
□□ 今の気持ち □□
 
言葉数の少ない祖父は行動で全てを表現した。
体を潰すくらい働く事だけの人生だったと、今ならよくわかる。そして、曾祖母の毒でほとんど話せない人であったと理解できるのだ。曾祖母の毒を私に渡していたという事も容易に理解できる。更に私も小学校の時は、その毒を弟達へ渡していた。負の循環図が完成している。
 
それもあり、今弟は私につらく当たるのだろう。と思っている。
父の言葉「いつまでも強いわけでない、いずれ形勢が逆転するぞ」はい、その通りになりました。しかし、今からはどんな逆転があるかと考えるとこの言葉は、無常を表現しているのだろう。私の生き方を見つけても良い時期にきたのだ。
 
一向に自信がない、自己肯定感が低い、何をやっても中途半端でうまくいかない、人から褒められれば居心地が悪く、叱られればすんなり受け取れる。なんて歪んだ精神状態だろう。
 
これが、毒を祖父にお返しできたのできれいさっぱり消えていく。父は普段は育児に関わらなかったが、要の時にしっかり見ていてくれた。毒は少しはあるかもしれないが、わざわざ吐きにいく事もない感じだ。
 
母は結構、毒を吐いていた人だが、アスペルガーだと分かったので、許容範囲となっている。確かに今でも毒を吐くがそれも可愛らしく思えているから不思議だ。
 
母は2重否定が好きだった。
あなたは、やれば出来るのに、やらないから出来ない。
だから出来ないけど、やれば出来る。でもやらないから
出来ないと、ループするのだ。
 
これは、母自身の思うように上手くいかない事をそのまま表現している。努力をしないで出来る事は少ないが、出来ていない事、人より下手な事をぐずぐず愚痴る事が多い。過去の私に充てられた言葉というより、母の苦悩をそのまま吐き出していたにすぎないと分かる。
 
毒を持つ人の言葉は「嘘」だったりその人の苦悩が表現される。その嘘を、自分で真実に書き換えていく事で心が軽くなる。
 
毒のコントロールから離れて行けば、主体的に生きる事しか残っていない。自分自身が自分の最高の応援者であり、理解者になっていく。
 
well-being(ウェルビーイング)
不思議な言葉だが、
きっとこの言葉が今からの人生になっていくだろう。
 
 
 

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